『神戸・続神戸・俳愚伝』

■西東三鬼『神戸・続神戸・俳愚伝』読了(27日)。

神戸・続神戸・俳愚伝 (講談社文芸文庫)

神戸・続神戸・俳愚伝 (講談社文芸文庫)

「神戸」の冒頭2行を読んだとき、私はこの小説が絶対に好きだと確信した。

昭和十七年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。

そして「私」(三鬼のこと)は神戸の「トーアロード」にある「ホテル」の住人となる。そこには雑多な人々の「ハキダメ」となっていた。どう生活をしているのか謎なエジプト人、元娼婦の波子(「私」と同棲)、バーのマダムたち、元看護婦の葉子、生真面目な台湾人、ドイツ水兵、兵役忌避の青年(しかもその青年はホテルのオーナー夫人と出来てしまう)……。そんな彼らと「私」との交流が綴られていく。「私」の彼らへの目線は限りなく優しく、懐かしさに溢れていて(昭和29年に連載開始)、かといってジメジメしていなく……とまたもやべた褒めモード。

そりゃそうだ、私はこの小説を今後何度となく読み返していくんだろうな、と思うから。

「神戸」の続編にあたるのが「続神戸」で、「俳愚伝」は自分の俳句人生を振り返ったもの。どちらもとてもおもしろい。「俳愚伝」には「京大俳句事件」のことも詳しく書かれている。治安維持法の名のもとに新興俳句が弾圧された事件なので、笑える話じゃない(この後、三鬼は失意のどん底で神戸に流れ着く)のにちょこちょことクスリとさせられしまう。たとえばこんなところ。

検事の前に坐った途端、私は全く呆気に取られてしまった。彼は「土上」の古家榧子と双生児ほどよく似ているのだ。だから、彼が「たとえ知らなかったにせよ、リアリズムというコミンテルンのテーゼを用いた事には、男らしく責任を取って貰わねばならん」などという時、私は「久濶なり、古家榧子!」と心中でつぶやきながら、検事の顔ばかり眺めていた。

「久濶なり」じゃないよ。

あと、「続神戸」「俳愚伝」で印象に残ったところ。思ったことは共通してて「もしかしたら俳人の頭の中ってこんな感じなのか」だ。長いけど引用する。

仕事が終って、広島で乗り換えて神戸に帰ることになり、私は荒れ果てた広島の駅から、一人夜の街に出た。
曇った空には月も星もなく、まっくらな地上には、どこからかしめった秋風が吹いてくる。手さぐりのように歩いている私の傍らに、女の白い顔が近づき、一こと二こと何かいう。唇がまっくろいのは、紅が濃いのであろう。だまっていると「フン」といって離れてゆき。私は路傍の石に腰かけ、うで卵を取り出し、ゆっくりと皮をむく。不意にツルリとなめらかな卵の肌が現われる。白熱一閃、街中の人間の皮膚がズルリとむけた街の一角、暗い暗い夜、風の中で私はうで卵を食うために、初めて口を開く。
広島や卵食う時口ひらく
という句が頭の中に現われる。(「続神戸」)

私は、天空の俳句を作った。それ以前の昭和十年に、誓子は句集「黄旗」で、飛行機上の作品を発表していたが、私はそれに敗けまいとして、それからも空の旅の度に、俳句を作ったその中で
凍天を降り来て鉄の椅子に在り
という、空港のロビーの一句は東京の新興俳人たちの好評を博した。
私は無料の乗客として、よく飛行機に乗った。いつもガタガタのユニバーサル機で、それは安自動車のフォード級であった。(略)
その頃の冬のある日、私は箱根、仙石原のゴルフ場で、シンガポール以来の友人、三田幸夫とゴルフをしていた。すると、忽ち頭上を、大阪行きのユニバーサルがヨタヨタと飛んで行った。それはその翌日、私が乗ってゆく筈の機体である。「無事に帰ってこいよ」と、私は地上から声援した。翌日、当時臨時に使っていた、立川飛行場から、私は出発した。厚木を通って箱根にかかり、仙石ゴルフ場の真上にさしかかると、機上の私に向かって、粟粒ほどの人間が手を振っていた。よくよく見ると、それは「昨日の私」であった。(「俳愚伝」)

ツルリと剥ける卵の皮とズルリと爛れて剥けた人間の皮の対比にもハッとさせられたけど、俳句生活を振り返る中でぽーんと唐突に「昨日の私」を見つけた話を投げ込んじゃうのにもびっくりだ。

■今読んでいるのはウィリアム・トレヴァーアイルランド・ストーリーズ』。極上だ。